三日前の3月10日は東京大空襲だった。テレビで特番がいくつも放送されたから、覚えている人も多いだろう。
空襲は東京だけではなかった。鹿児島市でも大空襲が起きた。市街地が攻撃された。そして僕の母は鹿児島市の街中の出身だ。
当時小学校六年生だった母は同じ鹿児島市内の郊外へ疎開していた。だから難を逃れた。もし疎開していなかったら、母は爆撃を受けて死んでいた。母の実家が焼けたからだ。実家の防空壕にいた親戚たちは空襲で亡くなった。母のおばあちゃんも空襲で亡くなった。
終戦後、生き残った親戚一同が皆、母の疎開先に身を寄せてきた。満州や中国へ行っていた親戚達も母の疎開先を頼って集まってきた。郊外だから畑はあった。だから食料があった。部屋は狭いが土間が広かった。その土間に板を敷いて、その上に御座を敷いて、そして布団を敷いた。母の親戚一同がそこでお世話になった。
「戦争に比べたら、コロナウイルスなんて何てことないよね」
と僕が聞くと、母は頷いた。